雑記4 タムケルについて / ビブリオマンシーの感想文

雑記

2020.06.03

◆ ビブリオマンシーの結果

 

僕たちの店naraでは「魔女アカデミー」と名付けられた、一連のワークショップや個人セッションを行っています。それは、オラクルカード・星読み・手相などで、それぞれの分野にそれぞれの先生がいらっしゃいます。その中でシタールさんは、naraで一番長くオラクルカードの会をしてくださっています。

 

先日、幸運なことに、シタールさんにビブリオマンシーをしていただく機会がありました。ビブリオマンシーとは書物占いのことです。本を手にとって目を閉じ、無作為に開いて、ページのどこかを指差します。その指差したところに書かれている文字や図像などが、その人へのメッセージだと考えるものです。わくわくします。

 

僕は、国語辞典・図像学の本・アロマテラピーの本の3冊でビブリオマンシーをしていただきました。3冊とも面白い結果だったのですが、特に印象に残ったのは国語辞典です。僕が目を閉じて指差した言葉は「手向ける(たむける)」だったのです。なぜこの言葉が現れたのか?とても不思議でした。なにしろ、この言葉について、ゆっくり考えたことが一度も無かったのですから。でも、どうしても気になります。タムケル、タムケル、タム、タム、ケル、ケル…。そして、頭の中で繰り返しているうちに、ある時ちょっと近づけた気がしました。この言葉には、戒めと祈りという2つの意味が含まれているのではないかと。

 

◆ タムケルと戒め

 

さて、「手向ける」を国語辞典でひいてみると次のように書いてあります。

 

たむ・ける <手向ける>

①神仏にささげる。(仏前に香華を~)

②遠くに旅立つ人に、物を贈る。(➡︎手向け)

 

また、「手向け」には次のように書いてあります。

 

たむけ <手向(け)>

①神仏にささげること。

②別れる(て行く)人に記念として物を贈ること。また、その贈ったもの。はなむけ。「卒業生一同に~の言葉を送る」

<~の神> 旅人が手向けをする道祖神。

 

昔の人が旅に出るのは命がけだったそうです。いちど旅に出たら、生きては帰れないかもしれない。故郷の人たちに、二度と会えないかもしれない。遠くに旅立つ人は、これから行く先は神仏が住むあの世だと覚悟したのでしょう。そして、村の内側と外側の境界に立つのが道祖神です。峠の道祖神を越えてしまえば、もうこの世ではないのです。ちなみに「峠」の語源は「手向け」だという説があるようで、それもうなずけます。

 

ここで僕が魅力的だと思うのは、峠の向こうはあの世だという感性です。これは、その人が自分の小ささを知っているということ。言い換えれば、人間が人間の分際を知るということです。分際と言っても、人間社会の身分・階級のことではありません。地球の枠組みの中で、人間は自惚れてはいけないという意味です。

 

少し前、自分自身について「森羅万象、全てを担当しておりますので…」と答弁した総理大臣がいましたが、この方の心は間違った全能感でいっぱいなのでしょう。しかし、笑ってはいられません。僕たちも、全てが見えていると錯覚をして、まるで地球の支配者のように傲慢に振る舞ってはいないでしょうか?自分には全てが見えていると過信したとき、世界は窓を閉ざしてしまいます。手向けるという言葉は、そのような間違った全能感を、そっと戒めてくれる力を持っていると思います。

 

◆ タムケルと祈り

 

それにしても、神仏にささげること、遠くに旅立つ人に贈ることを、なぜ「手を向ける」と表現したのでしょうか? なぜ体の他の部分ではなく、手なのでしょうか? 神仏に捧げるための幣(ぬさ)を手で置いたから、というのが一般的な解釈でしょうか?

 

「手を向ける」と言う場合、それは相手に掌(てのひら)を向ける動作だと考えるのが自然です。それで思い出すのは、整体の愉気(ゆき)です。(申し遅れましたが、僕は整体の施術をしています。) 愉気というのは、自分の掌を相手の体の辛いところにそっと置き、気をおくることです。こうして、ただそっと掌をあてているだけで、痛みが和らいでいきます。 愉気は、狭義では整体のテクニックの1つですが、広義では、施術中は常に愉気をしているとも言えます。

 

僕の整体は三観整体と言う整体法です。これは整体の創始者である野口晴哉(のぐちはるちか)さんが確立した整体法をベースに、僕の師匠である杉山(菱刈)千佳さんが育てた独自の整体法です。その野口晴哉さんは、愉気について次のように説明しています。

 

そもそも「気」とは何かについて、こう書いています。

 

気は物質以前の存在です。欅(けやき)の大樹も初めは一粒の種子でした。その種子の中にあった気が必要とする物質を集めて、ああいう大きな樹となったのです。(中略) 人間の体も気が造ってきたのです。要求によって生まれた気が、必要とするものを集め産み出したのです。気は精子以前の存在、物質以前の動きなのです。だから見えない、触れない、ただ感じる。

(野口晴哉「整体入門」より)

 

そして、愉気のために次のような準備をすると書いています。

 

まず合掌して指から手掌(てのひら)へ息を吸い込んで吐く。その合掌した手で呼吸する。やっていると手掌がだんだん温かくなり、熱くなり、ムズムズ蟻のはうような感じがしてきたり、清涼感があったりするが、そのまま呼吸を続けると手掌がだんだん拡がって室中一ぱいになり、「天地一指」という感じになって、自分がどこへ坐っているか、脚も体もなくなって、ただフカフカした雲の中に合掌だけがあるというようになる。

(野口晴哉「整体入門」より)

 

さらに、愉気法についてこう書いています。

 

愉気法というのは、他人の体に息を通すことである。離れていても、手をつないでいても、その部分に触れていてもよい。自分の気を相手におくるつもりで、気をこめて息をおくる。それだけである。静かな気、澄んだ気がよい。強くとも荒んだ気、乱れた気はいけない。

愉気法とは、人間の気が感応しあうということを利用して、お互いの体の動きを活発にする方法です。こういうことが果たしてできるかと疑念をもつ人がいるが、気を感ずる人ならできる。物しか見えない人にはできない。

(野口晴哉「整体入門」より)

 

僕も施術中に、はっきりと「気」を感じることがあります。愉気をしていると、相手の体がビクッと動くことがあるのです。掌をあてている場所とは関係なく、腕か脚のどちらかが動くことが多いです。腕なら手首を中心に、脚なら足首を中心にして、ベッドから跳ね上がるように動きます。ときどき、腰が跳ね上がるようなこともあります。

 

「気」や「愉気」を、にわかには信じられない方もいらっしゃると思います。そこで「掌」という漢字の成り立ちを見てみましょう。「掌」という漢字は「尚+手」でできています。「手」は五本指の象形です。「尚」は「向+八」です。「向」の真ん中の「口」は窓を表していて、その周りの部分は家を表しているそうです。「八」は左右に広がっていく様子です。(これを神の気配と解釈する方もいるようです。) つまり「尚」の字は、家の窓から外に向かって何かが広がっていく様子なのだそうです。てのひらの中に小さな窓があって、そこから外に向かって何かが拡散していく。これは驚くほど、野口晴哉さんが言う「気」や「愉気」の様子と合致しています。

 

「掌」という漢字はいつからあったのか調べてみますと、後漢時代の西暦100年頃に成立した「説文解字(せつもんかいじ)」という漢字辞典には既に載っていたようです。しかもその漢字は、今とほとんど同じ形をしています。ということは、野口晴哉さん(1911~1976年)が「気」や「愉気」を発見する1800年以上前から、てのひらには小さな窓があって、そこから何かをおくることができると考えていた人たちがいたのではないでしょうか。

 

さて、僕は愉気をしているとき、掌を当てながら何をしているかと言いますと、相手の体の辛いところに向かって「あなたが頑張っていることも、しんどいことも知っていますよ。もう大丈夫、安心してください」と祈っています。同時に、生きとし生けるものの安寧も祈っています。先生から、そう教わりました。愉気をすること、掌をあてることは、祈ることなのです。

 

◆ 戒めと祈り

 

手向けるとは、旅人が行く先や神仏が住むところなど、生身の自分にはどうしても辿り着けない場所があるとき、その場所に向けて、せめて想いを届けようとすることではないでしょうか。それは、人間の分際を知って自分を戒め、祈るということです。

 

生身の自分にはどうしても辿り着けない場所とは、旅人が行く先のように、物理的な距離が遠い所だけではありません。僕が整体の施術をするとき、相手に触れられる距離にいますが、僕自身は相手の中に辿り着くことはできません。まして神仏が住む場所へは、少なくとも自分が生身でいる限り辿り着けません。未来も同じです。僕は、自分の年齢を考えると50年後はたぶんもういません。50年後に話しをしたい人がいても、残念ながらそこへ辿り着くことはできないのです。(これで思い出すのは「贈与」です。でも贈与については、また別に機会に書きたいと思います。)

 

手向けるとは、戒めであり祈りであるというのは、ずいぶん欲張りかもしれませんが、僕はそんなふうに考えてみました。戒めと祈りは背中合わせになっていて、角度によってはどちらか1つしか見えないけれど、よく見ると2つくっ付いている。僕は、それが良いと思います。祈りの無い戒めは辛いだけだし、戒めの無い祈りは甘いだけだからです。

 

またビブリオマンシーをしてもらいたいです。そして、これまで一度も考えてみなかった言葉や図柄が出てきてほしいです。

シタールさん、どうもありがとうございました。次の機会を楽しみにしています。

 

  最後に

 

近々、魔女アカデミーの皆さんによる新しいイベントが開催されます。タイトルは「ミラクルランド」。4名の魔女が、それぞれ得意なアイテムを持ち寄り、短い時間で個人セッションを行います。シタールさんはビブリオマンシー、しのぶさんは怖くないタロット、まりさんはオラクルカード、シェーヌさんはリソマンシー(石投げ占い)の予定です。お客様に4つのセッションを順番に回って頂いて、その違いと共通点を楽しんでいただくものです。ご興味がある方は、お気軽にお問い合わせくださいませ!

 

高野祥二