雑記5 中庭に集う魔女たち(魔女アカデミーについて)

雑記

2020.06.27

魔女アカデミーと中庭

 

魔女アカデミーの皆さんは凄いのです。

 

魔女アカデミーとは、僕たちの店naraで、オラクルカード・星読み・手相など一連のワークショップや個人セッションをしてくださっている皆さんのことです。さあチームを作りましょうと言って始めたことではなく、自然に出来上がりました。そのチームに、尊敬と憧れの気持ちを込めて、後から名前を付けさせていただきました。

 

魔女アカデミーの皆さんはその活動によって「中庭」のような世界を創り出しました。これはとても凄いことです。そこで今回は、魔女アカデミーと「中庭」について考えてみたいと思います。(という訳でこの文章は、ワークショップや個人セッションの内容を詳しくご紹介するものではありません。)

 

僕がイメージする「中庭」は、都市の集合住宅にある中庭です。例えば、現在のパリの街に隙間なく建ち並ぶオスマン様式の集合住宅の中にある、街路からは見えない中庭です。日本のタワーマンションに付きものの公開空地とは違って、外からは見えないことが多く、あくまでも居住者のための空間です。そして、個人の家ではなく集合住宅の中庭であることも重要です。なぜならその中庭は、集合住宅に住む人々の共用空間であり、その中ではできる限り平等な人間関係であることが大切だからです。

 

集合住宅にある自分の住居が内側の世界(=私)で、建物を出れば外側の世界(=公)だとすれば、中庭はその2つを繋ぐ中間の世界です。魔女アカデミーの皆さんは、楽しくおしゃべりをしながら、いつの間のかその活動によって「中庭」を創り出したのです。

 

「私」について

 

ここで「私(=内側の世界)」と「公(=外側の世界)」について、自分の経験を書かせていただきます。僕のことなど「誰が興味あんねん!」と叱られそうですが、皆さんにも似た経験があるのではないかと思い、恥ずかしながら書かせていただきます。

 

まず「私」についてです。

 

中学2年か3年の頃、僕は「死に続ける夢」や「産まれ続ける夢」そして「その夢を見ているのは誰だ?」ということをよく考えていました。

 

自分が息絶える。→はっと目が覚める。→ああ怖い夢を見ていたんだなと思う。→そう思った自分は息絶える寸前だった。→そして息絶える。→はっと目が覚める。これを何度も繰り返すのが、死に続ける夢です。中学生当時は、もっと具体的な場面をイメージしていたのですが、ここで書くのはやめておきます。

 

自分は母親の胎内にいる。→いよいよ産まれるときがきた。→長い時間をかけて、狭い狭い産道を少しづつ進み、ようやく外に出る。→おめでとうございます、という声が聞こえた。→と思ったら目が覚めた。→まだ自分は母親の胎内にいる。胎児の自分が夢を見ていたのだ。→いよいよ生まれるときがきた。これを何度も繰り返すのが、産まれ続ける夢です。

 

自分が 順序通りの輪廻転生の中にいる保証はなく、死に続ける夢や産まれ続ける夢の途中にいるのかもしれない。そんなことを考えていると、生きている実感がどんどん薄れてしまい、身体がふわふわ浮かんでいくような感覚になります。

それだけではありません。こんなことばかり考えていると、自分が見ていると思っていた夢が、本当に自分が見ているのかどうか分からなくなってきます。つまり、自分は誰かが見ている夢の登場人物の一人にすぎないのではないだろうかと思えてくるのです。(その夢を見ている「誰か」のことを神さまと呼ぶのでしょうか?)

もしも自分が、誰かが見ている夢の登場人物だとしたら、その誰かが目覚めた瞬間に僕は消滅してしまいます。もう、ドラマチックなことは何もなく、ただパッと消えるだけです。ここまでくると面倒になってきて、それならそれでしょうがないと思っていました。

 

このように内側の世界(=)に閉じこもると、人は生きている実感を失っていくようです。皆さんにも、同じような経験があるのではないでしょうか?

 

「公」について

 

次は「公」についてです。

 

僕は学校を卒業して普通の会社に就職しました。中学生の頃の反動なのか、会社ではガムシャラに働きました。社員が2000人ほどの会社でしたが、会社は僕たち一人ひとりの個性をきちんと見ていてくれると思っていました。しかし、そうではなかったというのが自分の感想です。

 

政治思想家のハンナ・アレントさんは、こう書いています。

 

一切のものを目的に至る手段として 一切の樹木を潜在的な木材として 眺めるのは、使用する者、手段化する者としての人間の本性である。

(ハンナ・アレント「人間の条件」より)

 

少し補足します。ハンナ・アレントが言っているのは、次のようなことです。使用者というのは、一切のものを目的に至る手段として眺めている。だから樹木を見るときも、それが木材として、良いテーブルになるかならいかを見ているような人たちだ、と。

 

自分個人の経験から言えば、会社の経営者も同じです。経営者は、僕たち社員一人ひとりを人間として見ているようなふりをしながら、実は僕たちが良いテーブルになる木材かどうかを眺めているのです。もちろん、僕がいた会社にも、尊敬する先輩や同僚、後輩がたくさんいました。しかし、人間の集まりであるはずの会社は、一度出来上がってしまうと、一切のもの()を目的に至る手段として見るようになってしまうのです。ですから、会社という外側の世界(=)でガムシャラに働いたとしても、生きている実感を得られるとは限らないのです。

 

今でも忘れられないことがあります。僕が新入社員の時、指導をしてくださった先輩Kさんとの残業中の会話です。

Kさん「おい高野、会社って誰のものか分かるか?」

    「わかりません。」

Kさん「バカ、よく考えろ。」

    「う~ん、社長のものですか?」

Kさん「あのな、会社っていうのは俺たち社員のものなんだよ。覚えとけ。」

 

Kさんは10歳くらい年上で、体が大きく、仕事に厳しく、口が悪かったのですが、僕は尊敬していました。いま思えば Kさんは、とても正義感が強く、理想を持っていたのでしょう。その先輩は、30代で会社を辞めていきました。結局この会社は、自分たちのものではないと思ったのかもしれません。

 

僕は49歳まで会社にいて、年齢相応の役職や権限を与えられました。役職や権限があれば、少しづつ会社を変えていけると思っていたのですが、変わってしまうのは自分の方でした。会社の中で立場が上がるということは「一切のものを目的に至る手段として眺める」ことを、無言のうちに強要されることなのです。もしも、更に上の立場を望むなら、もっともっと「使用する者」に徹しなければならないのです。

 

会社は、社内で居心地が悪そうにしている社員を見つけると、その人はこの仕事に向かないか、努力が足りないのだ、と見做します。仕事に向いていないと判定されてしまうと、閑職に追いやられたり退職を促されたりするので、辞めたくなければ努力をする (または努力しているフリをする) しかありません。会社はこのようにして、人を作り変えていきます。社員は、それが大人になる事だと自分を納得させるのです。そのような訳で、会社の中で僕は、年齢が上がれば上がるほど生きている実感が擦り減っていきました。

 

皆さんも、職場でこのように感じたことがあるのではないでしょうか?また同じようなことが、学校に通う子供たちにも起こっているのではないでしょうか?

 

魔女アカデミーの特色

 

僕の経験はこれくらいにして、魔女アカデミーの話しに戻りましょう。

魔女アカデミーの活動は、どなたにも楽しんでいただけますが、「私」または「公」において生きている実感が擦り減っている方にも楽しんでいただけます。なぜなら魔女アカデミーは、「私」と「公」をつなぐ中間の世界だからです。

 

「魔女アカデミーって占いのグループでしょ?私は占いに興味がないので」と感じる方もいらっしゃるでしょう。そうおっしゃる方にも、もう少し聞いていただきたいと思います。

 

ここで、魔女アカデミーでオラクルカードや手相の個人セッションなどをしてくださっているシェーヌさんが書かれた文章を2つご紹介します。

 

(オラクルカードは) その日その時その方にぴったりのメッセージを伝えてくれます。それは後になって気づくこともあれば、その時にハッとすることもあったりします。(中略) 未来を占うというよりはいろんな可能性の中から、自分で進む道をカードをヒントにして見つけて進んでいける、あるいは立ち止まってみたりできるところが良いところです。>

 

<私の手相は占いというよりは、その方の良いところや得意なところを見つけるような感じです。またオラクルカードリーディングも同じで、占いという要素よりはご自身で決めて進んでいく(あるいはちょっと休憩する)ためのお手伝いのような気持ちです。>

 

シェーヌさんはこのように、魔女アカデミーの活動は、占いと言うより自分で決めて進んでいくためのお手伝いだと書かれています。

もうお一人、魔女アカデミーで星読みやタロットカードのワークショップや個人セッションをしてくださっている、しのぶさんの文章をご紹介します。

 

<生まれた瞬間の星空を地図に、今のこころのあり様を読み解きます。訳もわからず不安なところを明らかにして、自分と周りの環境に向き合う準備をすることにより、日常を暮らしやすくすることが、私の星読みの目的です。

また、星読みと縁の深いツールとして、タロットがあります。タロットは、星読みで使用する惑星や星座の物語とも縁が深く、個々のカードの名前(言葉)・数字・図柄の示すことを読み解きながら、思考を整理できるツールです。星読みと合わせて活用すれば、複合的な視点で現状とこれからの指針を理解できます。>

 

しのぶさんが書かれた通り魔女アカデミーの活動は、占いの道具を使いながら、参加者の思考を整理する仕掛けになっているのです。

 

次に、シタールさんについても書かせていただきます。シタールさんは、僕たちの店naraで一番長くオラクルカードのワークショップや個人セッションをしてくださっています。シタールさんはワークショップの中に「千本ノック」というとても面白いメニューを取り入れています。

 

オラクルカードにはたくさんの種類があって、カードの枚数にも絵柄にもルールはありません。そのため、オラクルカードにはガイドブックが付いていて、カード11枚の意味するところを丁寧に説明しています。通常お一人でオラクルカードを楽しむ方は、無作為に引いたカードとガイドブックを照らし合わせながら、なるほどそういう意味かと納得したり納得しなかったりされているのだと思います。

 

それに対してシタールさんの千本ノックは、無作為にカードを引いたら、できる限りガイドブックを見ないで、それが何を伝えようとしているのかを自分の直感で受け取るように促します。そしてそれを頭の中で整理し、他の参加者に言葉で伝えるのです。これを時間が許す限り、何度も何度も繰り返します。そうしているうちに、初めは自分の直感を言葉で表現することが恥ずかしかった方も、徐々に慣れてきて、やがて気持ちがスッキリしていきます。これがシタールさんの千本ノックです。

 

そしてもうお一人、オラクルカードリーディングをしてくださるマリさんは次のように書かれています。

 

<オラクルカードはその時必要なメッセージやアドバイスが受け取れるカードです。心に栄養を与えてくれたり、背中をそっと押してもらえたり。リーディングでは友達とお話ししているようにお気軽にどうぞ。>

 

マリさんの文章で、お友達とお話ししているようにという部分はとくに印象的です。ここには、魔女アカデミーが平等な人間関係であることが上手に表現されています。

 

ここまでを整理すると次のようになります。

魔女アカデミーの活動は、いろいろな道具を使いながら、直感に耳を澄まし、自分の頭で考え、それを言葉にして表現します。(=シタールさんの千本ノック) それは、思考を整理し、現状とこれからの指針を理解し、日常を暮らしやすくすることに役立ちます。(=しのぶさんの文章) ですから魔女アカデミーの活動は、占いと言うより自分で決めて進んでいくためのお手伝いなのです。(=シェーヌさんの文章) 階層のない集まりですから、お友達とお話しするような気持ちでお気軽にご参加ください。(=マリさんの文章)

これで、魔女アカデミーの特色をご理解いただけたでしょうか。

 

活動について

 

さて、ここで再びハンナ・アレントさんを引用させていただきます。

 

言葉と行為によって私たちは自分自身を人間世界の中に挿入する。そしてこの挿入は、第二の誕生に似ており、そこで私たちは自分のオリジナルな肉体的外形の赤裸々な事実を確証し、それを自分に引き受ける。この挿入は、労働のように必要によって強制されたものでもなく、仕事のように有用性によって促されたものでもない。それは、私たちが仲間に加わろうと思う他人の存在によって刺激されたものである。とはいうものの、けっして他人によって条件づけられているものではない。つまり、その衝動は、私たちが生まれたときに世界の中にもちこんだ「始まり」から生じているのである。この「始まり」にたいして。私たちは自ら進んで何か新しいことを始めることによって反応する。

(長い中略)

人間は一人一人が唯一の存在であり、したがって、人間が一人一人誕生するごとに、何か新しいユニークなものが世界にもちこまれるためである。

(長い中略)

人びとは活動と言論において、自分が誰であるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうして人間世界にその姿を現わす。

(アンナ・ハレント「人間の条件」より)

 

「人間の条件」は難しい本でした。それでも、上の文章にとても感動しました。なぜなら、「私」や「公」において生きている実感が擦り減ってしまった人に対して、アレントさんの言葉は希望を与えてくれるからです。人は活動と言論によって自分が誰であるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、人間世界に姿を表すことができるのだ!と。

 

そして、魔女アカデミーの皆さんがされていることは、アレントさんが言う活動と言論によく似ています。魔女アカデミーの活動に参加することは、(教える/教わる、どちらの立場であっても) 自分自身を世界に挿入し、自分が誰であるかを示し、そのユニークさを積極的に明らかにすることではないかと思うのです。魔女アカデミーに参加された皆さんが、晴れ晴れとした表情で帰って行かれるのを見ていると、そう思います。

 

魔女アカデミー宣言

 

ところで、哲学者の東浩紀さんは、アレントさんの言う「活動」についてこう説明しています。

 

アーレントは、古代ギリシアのポリスを公共性のひとつの理想だと考えた。「活動」はそんなギリシア市民の政治的な(ポリス的な)行為をモデルに考えられた理念型である。それは具体的には、広場=公共空間(アゴラ)にすがたを現し、演説をし、他人と議論するといった言語的で身体的な行為を意味している。二十一世紀のいまであれば、議会への立候補や政治集会での演説に加え、市民運動に参加したりNPOで社会奉仕を行ったりするような行為を広く指す言葉だと考えればいい。

(東浩紀「ゲンロン0」より)

 

アレントさんは、デモへの参加や広場での演説こそが「活動」だと言っていたのでしょうか?正直、そこのところはよく分かりません。もちろん、デモや演説の権利が保障されていることが健全ですし、内容によっては応援したいデモや演説はたくさんあります。それはそれとして、自分自身を世界に挿入するためには、政治的な活動以外にもいろいろな方法があると思うのです。魔女アカデミーのようなやり方もその一つです。

 

デモが街路で行われ演説が広場で行われるならば、魔女アカデミーが行われる場所を「中庭」と呼びたいと思います。魔女アカデミーのような半・公共空間が中庭です。そして中庭世界は、けっして役に立たないものではありません。「私」や「公」で擦り減ってしまった人々には、あらためて人間世界に姿を現わす場所が必要です。それが中庭です。中庭で元気になったら、また街路へ飛び出していくこともできます。中庭は住居(=)とも街路(=)とも繋がり、その中間に位置する、ほど良く開いた世界なのです。

 

そのような訳で、たくさんの方に魔女アカデミーという中庭に遊びに来ていただきたいと思います。また、僕が知らないいろいろな中庭について、皆さんからお話しを聴かせていただきたいと思います。そしてみんなで、自分が誰であるかを示し、そのユニークさを積極的に明らかにし、世界に姿を現わしましょう。

 

 最後に

 

712()に、魔女アカデミーの「ミラクルランド」が開催されます。いつもとは違う特別なイベントになりそうです。どうぞお楽しみに!

 

高野祥二