雑記3 naraというヘンな店

雑記

2020.04.30

僕と奥さんは2人で「nara」という小さな店を営んでいます。おかげさまで、今年の3月で開店8周年を迎えることができました。みなさま、どうもありがとうございます。さて、naraという店はちょっとヘンです。どこがヘンかというと、何屋さんかよく分からない店なのです。少しでもイメージしやすいように「整体と暮らしのギャラリーnara」という長い名前をつけましたが、やっぱりよく分からないと思います。

 

お取り扱い商品を並べてみますと、暮らしの道具 (日傘・本・石鹸・ニューカーテン・アロマオイル)、身につけるものと布 (靴・アクセサリー・エプロン・布小物・手ぬぐい・生地・染め織り・洋服)、手仕事の器 (陶器・ガラス・漆器・竹細工・木工)、たべるものとのむもの (お茶・珈琲豆・菓子)、こころとからだ (オラクルカード・土偶)、そして整体の施術。また最近では、僕が勝手に「魔女アカデミー」と名付けた一連のワークショップや個人セッション (オラクルカード・星読み・手相など) も開催しています。だいたいこんな感じですが、ますます分からなくなったでしょうか?

 

ここで結論めいたことを言ってしまえば、naraというヘンな店は、見えるものを通して見えないものが行き来する場所、世界が口を開けている場所でありたいのです。

 

では、世界が口を開けているとはなんでしょう?昨年の7月、僕が奈良の大和文華館へ「知られざる大和文華館コレクション」を観に行ったときのことをお話しします。僕は、縄文時代の土偶が見られると聞いて出かけたのですが、むしろ大きな縄文土器の迫力に圧倒されてしまいました。それは高さが70cmほどもある大きな土器でした。ガラスケースの中に入っていたので中を覗き込むことができなかったのですが、僕はその場で土器の内部を想像してみました。想像の中の土器は底がぽっかり開いていて、虚空へつながる入り口になっていました。そして土器の底にある虚空の入り口からこちらに向けて、風のようなものが強烈に噴き出してくるのです。僕はガラスケースの前でそう感じました。

 

医学博士でホリスティック医療に造詣が深い帯津良一さんは「虚空」についてこう書いています。

 

150億年前にビッグバンが起こり、宇宙が生まれました。このビッグバンは「虚空」の中で生まれたと言われています。「虚空」とは何もないという意味です。なにもないけれども、宇宙を生み出すほどの偉大な力を持ち、すべての生命の源なのです。

(帯津良一「達者でぽっくり」より)

 

話しを戻しましょう。僕があのとき縄文土器の底に見た (肉眼では見ていませんが) 入り口こそ、世界が口を開けている場所の一つなのです。

 

哲学者の鷲田清一さんはこう書いています。

 

古い街にあって今のニュータウンにないものが三つある。一つは大木、一つは宗教施設、いま一つは場末だ。この三つに共通するものがある。世界が口を開けている場である。(中略) 大樹と寺社と場末に共通しているのは、それらがこの世界の<外>に通じる開口部や裂け目であるということだ。わたしたちの日常の共通感覚<コモンセンス>をひきつらせるという意味で、妖しい場所である。そして妖しいというのは、怖いけれども(あるいは、怖いがゆえに)どうしようもなく惹きつけられる場所ということでもある。惹きつけられるのは、シュルレアリストたちが合言葉にしていた changer la vie (生活を変える)、つまりじぶんの存在の別の可能性へと揺さぶられるからだろう。

(鷲田清一「想像のレッスン」より)

 

それでは、僕たちの店も世界が口を開けている場所でありたい、というのはどういうことでしょうか?僕たちの店が、怖いがゆえにどうしようもなく惹きつけられる場所を目指しているわけではありません。ただ少しだけ、お客様にとっても自分たちにとっても「じぶんの存在の別の可能性へと揺さぶられる場所」であったらいいなと思うのです。商品やワークショップや施術などを媒体にして、見えないものが行き来する場所にしたいのです。

 

だいぶ仰々しくなってしまいましたが、とてもシンプルなことです。見える世界を通して見えないものが行き来するとは、例を挙げれば、作り手の思いを店の者がお客様に伝えるということです。もちろんそういうお店はたくさんあって、僕たちはその方たちをお手本にやってきました。作り手が何処でどのように暮らし何を思いながら活動しているのかを、できる限り知ろうとし、自分たちが知り得た範囲でそれをお客様に丁寧に伝えていくのです。もちろん僕たち店の者に、作り手の心の中が全て理解できるわけではありません。しかし、謙虚かつ大胆に、作り手の思いに近づこうとすることが店の役割だと考えています。

 

ところがある時ある作り手に「自分の生活を買ってもらうわけではない、作品を買ってもらうのだから、もっと作品を見せて欲しい。」と言われたことがあります。商売人はそうあるべきかもしれません。だからnaraという店は商売が下手なのだということも分かっています。それでもやはり僕は、思いを伝えることが大切だと思うのです。

 

例えば、僕がお客さんとしてあるお店に入ったとします。そこに飯碗が並んでいる。その中のひとつが目にとまり好きになる。手に取ってゆっくり眺めるとますます好きになる。お店の人に、作者が何処でどのように暮らし何を思いながらこの飯碗を作ったのかを物語のように話してもらい、もっともっと好きになり買ってしまう。このとき僕は、見えるものと見えないものをセットで購入したのです。見えないものとは、作り手の経歴ではありません。作り手の業界での地位や、日頃の売上でもありません。見えないものとは、その人が何に怒り、何を悲しみ、何を喜び、何を祈る人なのかということです。見えるものと見えないものの両方に触れることによって僕たちは、教科書にあるような画一的な答えではない、自分の答えに近づくことができるのです。

 

魔女アカデミーの一連のワークショップや個人セッションも同じです。オラクルカードという絵札、星読みのホロスコープ、手相なら手のしわという目に見えるものを通して、見えないものが行き来します。整体も、施術という行為を通して見えないものが行き来します。僕が土偶を作るのも、同じことです。naraでオラクルカードの会を開いていただいているシタールさんは、見える世界と見えない世界をつなぐ出入口を「どこでもドア」とおっしゃっていました。その通りだと思います。

 

なぜこれほど見えるものと見えないものに拘るのかと言いますと、人は、見えるものと見えないもので出来ていると思うからです。それなのに、いま僕たちひとりひとりに、見えないものが不足しています。もっと怒り、もっと悲しみ、もっと喜び、もっと祈る。世界が口を開けている場所は、そのきっかけとなる場所なのです。ですからnaraは、これから先も商売が下手なままです。ヘンな店ですが、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 

高野祥二