雑記1 どうして土偶?

雑記

2020.02.17

昨年から土偶を作り始めています。

インスタグラムに投稿したり、実物を見ていただいたりして、僕の土偶作りのことを知ってくださる方が少しづつ増えてきました。みなさん、ありがとうございます。

 

さて、僕はどうして土偶を作っているのでしょうか?実は僕にもよく分かりません。作りたい、作らなくっちゃという直感です。土偶は以前から博物館で見ていて大好きだったのですのが、自分で作ろうと思ったのは直感なのです。それでも、作り始めてやっぱり自分でも考えます。どうして土偶?って。そこで、自分の考えを少し整理しておこうと思います。

 

僕にとって土偶は、祈りの道具です。しかも宗教以前の、とてもプリミティブな。土偶は、生と死と再生への祈りを形にしたものだと思っています。新しい生命の誕生を願ったり、亡くなった人が安らかであるように願ったり、いつの日か生まれ変わってくること願ったりする、祈りの道具だと思っています。

 

実際のところ土偶には、妊婦さんの姿をしたものがとても多いのです。また縄文時代の晩期には、蔵骨器を兼ねた土偶も作られています。外から見ると人の形をした土偶ですが、中が空洞で容器になっていて、その中に乳児の骨が収められていたものが発見されています。これには、亡くなった赤ちゃんを母体に返す意味があったという説があります。亡くなった子を母体に返して、安らかに眠ってもらい、やがてもう一度じぶんの赤ちゃんとして生まれてきてね、という祈りだったのかもしれません。

 

そういう祈りを、今の言葉に翻訳するとどうなるのでしょうか。例えばお守りの名前を見てみると、子宝祈願・安産祈願・無病息災・病気平癒・家内安全・長寿祈願…。それに対して、土偶の祈りはもっとおおらかで、まるごとです。よく生きて、よく死んで、また生まれてこようねという、まるごとです。僕は、まるごとの祈りが必要だなと思うのです。

 

全体は部分の総和以上の何かである、という言葉があります。1つ1つの部分で考えることも大切ですが、まるごと全体を感じることも大切です。いまの世の中には、まるごとが足りていないような気もします。土偶のような祈りの道具を手元に置いて、ゆっくり、おおらかに、生命まるごとに心を向ける時間が必要だと思うのです。僕の土偶をそんなふうに使っていただければ、これほど嬉しいことはありません。

 

高野祥二